鶴ヶ島の恩人「川崎平右衛門(かわさきへいえもん)」

みなさんは、鶴ヶ島の新田開発に力をつくした、川崎平右衛門を知っていますか。平成29年6月で平右衛門が亡くなってからちょうど250年がたちます。鶴ヶ島の恩人、川崎平右衛門について一緒に学びましょう。

川崎平右衛門ってどんな人?

川崎平右衛門は、押立村(おしたてむら)(今の東京都府中市とうきょうとふちゅうし)の農家出身ながら、身分制度(みぶんせいど)がきびしい江戸時代にもかかわらず、世話役(せわやく)に取り立てられた人物です。
元文(げんぶん)4年(1739年)から寛延(かんえん)2年(1749年)までの10年間、鶴ヶ島をふくむ武蔵野(むさしの)の新田開発の立役者(たてやくしゃ)として大いに活やくしました。 

 川崎平右衛門の肖像画

(写真:平右衛門肖像画(しょうぞうが))

江戸時代中期の様子

当時(江戸時代中期)の幕府は、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が「享保(きょうほう)の改革」の柱として新田開発をすすめていました。しかしながら、もともと新田にてきさない土地が多かったことや、開発の成果が安定しないうちからたくさんの年貢(ねんぐ)を納めなくてはならず、飢きんなどで不作が続くと農民が逃げてしまうなど、なかなか開発が進まなかったようです。 

新田開発における平右衛門の政策

平右衛門は、自分の村周辺が次々に荒れていくのを見て、いたたまれなくなり、自身のお金を投じて食べ物を提供するだけでなく、土木工事などを起こし、農民のための活動を行いました。
平右衛門はこうした功績(こうせき)を認められ、新田世話役に起用されたのです。

平右衛門が行ったこと

  • 用水路を整備するなど、農民の生活が安定するような公共工事を行いました。
  • 耕した面積に応じた農業用堆肥(たいひ)を配り、農業生産の定着をはかりました。
  • いざという時のために、雑穀の貯蓄(ちょちく)をすすめました。

公共工事のときには、家で子守をする子どもにも麦を渡すなど、一人ひとりに役割とやりがいを与え、農民の生活が安定するよう力をつくしました。
もともと農民であった平右衛門。農民の暮らしや気持ちをよくわかっていたのですね。農民の立場で考えたアイデアを次々に実行していきました。

平右衛門の署名

下の写真は、延享(えんきょう)2年(1745年)、当時の高倉村に対して出された現在の「納税通知書(のうぜいつうちしょ)」にあたる文書です。最後に「川崎平右衛門」の名前が確認できます。

川崎平右衛門の著名

 

川崎平右衛門陣屋跡(じんやあと)を見に行こう

平右衛門は、武蔵野の開発を成功させたのちには、美濃国(みののくに)(今の岐阜県 ぎふけん)での河川の工事をおこなったり、石見国(いわみのくに)(今の島根県 しまねけん)銀山奉行(ぎんざんぶぎょう)を歴任し、晩年には幕府の要職・勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)にまでなりました。
明和(めいわ)4年(1767)に、74歳で生涯を閉じるまで、そのはたらきは民衆の生活によりそったものであったことから、鶴ヶ島をはじめ、各地に平右衛門をたたえる顕彰碑(けんしょうひ)や大明神碑(だいみょうじんひ)、神社がたてられています。

川崎平右衛門陣屋跡(鶴ヶ島市大字三角原) 川崎平右衛門陣屋跡地図

(写真 市内高倉地内にある川崎平右衛門陣屋跡と場所の地図)

川崎大明神石し 川崎大明神展開図  

(写真 川崎大明神(だいみょうじん)と展開図)

普段は正面しか見ることができませんが、左右や裏にも文字が書かれていて、このほこらがつくられた時期や協力した村のことが記されています。 
このほこらは、平右衛門が亡くなってから30年もたって農民たちが作ったといわれています。このことからもいかに平右衛門が農民から感謝されていたかがわかります。

長い間、ひび割れなどによる劣化(れっか)が心配されてきましたが、平成27年度に修復しました。

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